余裕のウソと必死のウソ

大なり小なり、
誰でも嘘はついたことがあると思います。
笑いが目的のウソだったり、
優しさからでたウソだったり、
ついつい成り行きでついてしまったウソなどなど。
はたまた、ウソにウソを重ねて、
何がウソで何がホントか、
分からなくなってしまった、
そんな話も聞いたことがあります。

自分を振り返ってみたら、
ウソのタイプ、2つに分類されました。

一つ目、余裕でつくウソ。
平気でウソをつくというわけじゃなく、
心に余裕があってでたウソという意味。
場を盛り上げるためとか、流れや勢いで出たウソ。
余裕のウソは、ウソをつかれた側にも恐らくあまり影響なく、
ついた本人もいつか忘れてしまうパターン。

二つ目、必死でついたウソ。
これはウソをつかれた側よりも、
ついた本人の心にずっと残っているような気がします。
というのも、必死でついたウソには、
そのウソをつくに至ったストーリーが必ずあるから。
例えば、秘密や何かを隠すためだったり、
人によっては、誰かを守るためだったりするかも。
とにかく、ウソの裏に人間臭いエピソードがあるパターン。

私も子供のころについたウソ、
未だに覚えているのがあります。
そして、不思議とその時の状況もけっこう鮮明に。
なぜそういうウソをついたかたどってみると。。。
コンプレックスだったり自分の性格が浮かび上がってきました。

そう考えてみますと、
もし友達や誰かが必死でついたウソが、
ウソだと分かってしまった時でも、
その裏側にあるストーリーに思いをはせると、
真っ向から非難できないような気も。

現在、作曲問題で世間を賑わせている氏を擁護するわけではありませんが、
本当のところ、どういう種類のウソだったのでしょうか。

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